1本の電話・・・そして復活へ by くわんば

2001年5月21日午後、携帯電話が鳴った。
それは珍しいことに8代目村長の堀切からの電話であった。懐かしい声ではあったが、電話の向こうの堀切の声は、いまいち歯切れの悪いものがあった。何だかいやな予感が走ったが、その予感は見事に的中してしまうことになる。堀切からはTOASTのドラマー吉野が他界したことを告げられた。
まったく信じがたいことであった。

堀切は同じTOASTのメンバーとして、また高校時代の同級生として吉野との付き合いは長かったが、私は吉野とは同じ会社に在職し10年近く一緒に仕事をしていたことがあった。しかもこの年の明けたころには一緒にバンドをやる約束までしていたのだ。
私と吉野は楽器関係の仕事をしていてプロミュージシャン達の現場のケアなどをしていたが、吉野は都合で私よりもかなりはやく退社して不動産業を営んでいた。その後、私もその会社を退社することになり、音楽産業とは二人とも縁が切れることになった。しかしながら、それが逆に音楽への情熱を掻立てられることになるとは私も吉野も思っていなかった。

その前の年、私は幼稚園に通っていた娘の発表会で、父兄バンドでギターを弾いた。15年ぶりに公会堂のステージに立ち、ライトの熱や反響してくる音は忘れていたものを呼び戻してくれた。同時期、4代目村長の島田が催した新年会には“じゃんぐるじむ”にいた牧野らの姿があり、20年近く会っていなかった者もいた。場所はふぉーく村村民にとっては馴染みの桜木町にあるセンターグリル。この2人は高校の先輩と後輩。今でも近所で交流があったようだ。
話は弾み、バンドを組む話が持ち上がった。
そして、横浜ふぉーく村復活の話題も出た。

その時はまったく横浜ふぉーく村を復活させようという気持ちは私自身にはなく、島田にしても酒の勢いで出てきたものだったのかもしれなかったが、牧野には半分はその気持ちがあったのだと感じ取った。
とにかくバンドをやる話が決まった。7月にあるコンサートに向けて5月末までには出演審査用のデモテープを作らなければならなく、島田、牧野、そして私は他のメンバーを探すことになった。牧野は交流のあった“ひなげし”のみっちゃん、私は吉野に声をかけることになる。

Subject: Fwd: バンドやりたいな
Date: Tue, 9 Jan 2001 18:13:40 +0900

吉野です。
バンドやりましょう!俺でよければ参加させてください。
4年ぶりのバンドです。
最近たまに楽器屋さん行くと、同年代が結構うろうろしてるでしょ?
みんなやりたいんでしょね。
体力がどこまで続くかが問題!
いちどどっかのスタジオで、音出してみましょ。

これがその時のメールの返答である。

バンドメンバーが決まり練習を開始しようと思ったのだが、運悪く2〜3月は不動産業界は繁忙期。残念ながら吉野は練習に参加することが難しくなってしまった。それでもオーディションの時期は待ってくれないために急遽、昔同じバンドでドラムを叩いていた菊田に今回限りということで代役をお願いすることななった。そのため吉野にはこのコンサート後にバンドに参加してもらうように要請し、彼もそのつもりでいたはずだった。
吉野の通夜・葬儀には31名ものふぉーく村メンバーが集まった。
通夜に参加したふぉーく村メンバーの多くは通夜の帰りに居酒屋により、吉野の話や昔話で彼を弔った。
さすがにみんな年を重ねた霹靂が風貌に見え隠れしていた。しかし、会話をすればするほど誰もが何も変わっていないことに気付いたはずである。出席者の中には“たっぴ”の小山もいた。彼とは私が楽器の仕事をしてるときにも、よき顧客として仕事を共にすることも少なくなかった。その小山が現在ライブハウスを営んでいることを聞き、何故そうなったのか記憶は定かではないのだが11月3日に彼のライブハウスで吉野の追悼を兼ねたライブを行うことをその場で決めた。

こうして11月3日のライブは「横浜ふぉーく村文化祭2001」と題して行われ、ふぉーく村に属した村民関係は60名を越えるメンバーが集まり、会場となった新横浜ベルズは超満員。出演者および観客の数は子供も含めれば150名以上いたのではなかっただろうか。
コンサート自体は演奏のレベルの高さを求めるものはできなかったが、ステージの上には懐かしい顔触れがあの頃と同じ歌声を聴かせてくれた。
それはそれで楽しいコンサートであったし、できればまた何処かでコンサートができればという気持ちが残ったが、まだ横浜ふぉーく村が再スタートを切るという思いは薄く、コンサートの収益でホームページを思い出のタイムカプセルとして、また、疎遠だった村民が連絡の取りあえる場所として作り上げることくらいでしか考えられないでいた。その頃すでに「横浜ふぉーく村事務局」という名で集まっていたのは、4代目村長:島田を中心に牧野、中島、畑田、織部、菊田、伊東(修)と私が主で、たまに柳、佐藤(貢)らがミーティングの場に顔を出していた。ミーティングと言っても以前のような場所があるわけでもなく、ファーストフード店や喫茶店で閉店まで話し合いを持っていた。

集まることが好きな者の発案で新年会を行うことを立案し、翌年の2002年1月19日には日ノ出町のライブハウス「グッピー」で新年会が開かれることになる。その場には初代村長の川口さんをはじめ、志賀さん、岡田さんらの顔触れもあり、“とんがらし”や“tara”らのミニステージが行われた。でもやっぱり「活動」と呼べるにはほど遠く、単なる「宴会」という枠は拭いきれていなかった。そんな中ではあったが、川口さんの名誉村長就任、復活宣言と「横浜ふぉーく村事務局」を煽るような流れでその日は終了した。

このあたりからだろうか、ふぉーく村時代の仲間とバンドの練習以外でも会う機会が増えていったのは・・・。4月には横浜放送局出演者の主催による“かりんとう”のモーリの十三回忌イベントがあり、偶然にもその場に来たハルさんと会う。実は、私はライブハウス「横浜放送局」には一度も行ったことがない。しかし、このイベントの話は私のところに舞い込んできた。それこそ私がそんな場所にいる方が妙な話なのだが、今を思えば行って良かったと思っている。
ハルさんは私とはほとんど面識がなく、私と同時代に入村した“じゃんぐるじむ”、“三拾円”ら以降にとってもふぉーく村ではほんの数回くらいしか会う機会がなかったものと思う。そんなハルさんが私を知らなかったのは当然ではあったが、そのイベントを知らなければ、行かなければ会うことはできなかったわけで、この接点がなければその後の交流もなかったことを思うと本当に出席して良かったと思っている。
その後、相変わらずミーティングはファーストフード店で行っていたが、川口さん、志賀さん、そしてハルさんも参加したあたりからだろうか、何となく自分の中で「本当にふぉーく村を復活できるかもしれない」と思いが強く出てきたんだと思う。

2002年8月にもグッピーでイベントを行った。これは2003年が「横浜ふぉーく村」として30周年の年にあたるためにそのプレイベントとしての意味と、こうやって仲間を集めさせてくれた吉野やモーリ、そして私は面識はないのだが国体さんらに感謝する意味でパーティを行った。
事務局としての動きに一抹の不安を感じていた私は、企画力、行動力のある“たっぴ”のマネージャーであった“なちび”に声をかけた。なちびが参加してからは、サークルとしての団体登録を行ったり、口座を作ったり、ミーティングの場所を公共施設に移したりと、徐々にサークルとしての活動らしいものへと変化していった。彼の参加がなければ現在の形はなく、快く彼が事務局メンバーとして参加してくれたことがとても大きな力となっていることは言うまでもない。
こうやって、事務局のミーティングにはちらほらと人が増えていき、ホームページに設置している掲示板にも多くの人が集まりだしていった。

今はまだ、自分がふぉーく村村民として何かをしようと思っているものは数が少なく、大半が、とりあえず在籍しておいてイベントなどには参加したいと思っているものがほとんどかもしれない。それはそれで仕方のないことで、現状を考えれば不自然なことではなく、むしろ当然とも言える。私としても、そんな方々を強制参加させようという気もさらさらなく、そんな方々がいつでも気兼ねなく遊びに来れたり、気持ち良く参加できるようなサークルにできれば、この上ない喜びであろう。
それは私自身がふぉーく村では“出演者”よりもスタッフとしての履歴が長く、本来の仕事としても裏方を専門にやっていたことで出演者や参加者には楽しく、気持ちの良いイベントを体験してもらいたいというサービス精神から出てくるものだと思われる。
そんな気持ちはずっと忘れていた。
私の中では吉野のことがなければ「横浜ふぉーく村」のリスタートはなく、そんな気持ちも持たないままの人生になりそうであった。吉野もきっと「横浜ふぉーく村」の復活を望んでいたに違いない。
今は「自分たちで何かを作り上げることができる」ということがぼんやりだが見えてきている。
今になって楽器を買う者も増えてきているのは「何かをやろう」という気持ちが少しずつだが浸透してきている表れだろう。
焦る必要はない。ゆっくりでいい。
きっと何かができるはず・・・

- END -